本師 眞海洋一老師追悼 三十年来、行脚し来たれ… 只管打坐とは如何

熱い雲水時代の思い出
もう二十年以上前になりますが、私が、阪神淡路大震災を機に退職し、カンボジア難民支援に向かうも半年後に中途挫折、その後中東諸国を巡礼、主にイスラエルに一年半程の滞在から帰国、地元岐阜市のお寺での参禅を経て、平成10 年に無一文で、大本山永平寺へ飛び込みで出家志願させて頂き、結果的にご縁あって福井県大野市宝慶寺で佛縁を賜り、雲水として只管坐禅に励んでいた頃のことです。
 ある時、NASAの宇宙ステーション開発に関わっておられたギリシャ系アメリカ人のコスタスさんが宝慶寺へ参禅に来られました。宇宙の勉強を徹底的にしていく内に、外の物理的な「もの」としての宇宙の探求に限界を感じ、己の内にある無限宇宙を探求する方が人生の全てを懸けるに値するのではないか?と、ふと直感的に感じたことがあり、その瞬間を境に大方向転換をされ、日本に参禅に来たとのことでした。
 当時、師匠 田中真海老師のもと、毎日、三時半からの坐禅勤行と毎月の摂心(五日間程の朝から晩まで坐る集中的な坐禅会)がありました。
 私はそれがとにかく楽しくて、いつも喜々として5時間でも10時間でも坐禅していた為か、コスタスさんはそんな私を慕って下さり、いつも私と一緒に勤行に励み、お寺での生活を共に過ごすようになっていきました。
 そんな彼がある日私に「あなたにとって道元禅師の教えの中で一番大切なものは何ですか?」
と聞かれたので「当下とうげ眼横がんのう鼻直びちょくなることを認得にんとくして人(他)にまんぜられず。便乃すなわ空手くうしゅにしてきょうかえる。」という御示しが一番大切です。と、永平広録の一説の御言葉で応えさせて頂いたことがありました。
 当然ながら「それはどういうことですか?」と問われたので、「お互いの体験を通してしか意図する意義は共有出来ませんが…」と前置きした上で、その時自分が感じているままを説明しました。
 当下とは過去でもなく、未来でもなく、時間空間の入る余地の無い「今ここ」ということ、「眼横鼻直」とは禅定中に把握される位置的場所でもあり、また、陰陽、時間空間の合一する場、そして、有限(形ある)の世界と無限(形無い)の世界の転換点の「場」でもあると感じています。
 それ故に、もしそれを認得、体得し得たならば、いつ如何なる時も自分や他人の感情想念や事象変化の影響下にはなくなり、無念の念、無相の相が自ずから把握出来る境地、眞の自己本来の源へ還ることが出来るということだと理解しています。
 だから道元禅師は手(空手)に何も形ある経典や宝ものを一切もたなくても、私の在り方そのものが真理の現れなのだ、と言い得たのです。
 矛盾する様ですが、私達も本当は同じ現れなのだけれども己の想念の影響下にあり、それらが常に現実的には無意識に自己保全、執着の根源的力として自他の自由を邪魔をしてしまいます。「自己の本体が形あるもの」と認識する限り、自己保全としての執着を離れることは、原理的に不可能です。何故なら常に生じる想念が、そもそも誤った自己保全に依って発せられたものだからです。
即ち、全て無意識で発してしまう想念の原理となる源を解決しない限り、その原理が変わることはあり得ません。
その為、功夫坐禅、只管打坐を実践するより先に、指導者に参師聞法を通して、無念の念、即ち、形を護る為でない無相の想念とは何か?を把握し、想念の影響下から離れて本来の自己へ還とはどういう意義があり、それをどう実践すれば体感的に理解を深め、原理そのものを改善し超えていくことが出来るのか?
こうしたことを学び、自分自身の智慧の働きで以て自分の想念に陥ることなく最終的には本来の自己の働きとは何か?を、明らかに自覚するのが佛道修行だと感じています。
 と答えました。
すると、コスタスさんが眼を輝かせて「その為にはどうしたら良いのですか?」というので
私の師匠曰く
「三十年来、行脚し来たれ…ですよね(笑) まあ、あせらず一緒に三十年坐禅しましょう!」と共に坐禅勤行をさせて頂きました。
 そして、少しずつ立禅や、坐禅の稽古実践を通して、丹田の存在とその重要性をお伝えしました。
私自身、丹田が活性化して禅定に入れる感覚が不思議で気持ちよくて仕方ない時期でもありました。
 人生を懸けて参禅された聡明なコスタスさんに、いろいろなことを真剣に問われ、いつも論議して下さったので、私自身も整理されとても有意義な時間でした。
 大切なことは丹田の活性化とその力の増大の必要性と素晴らしさを説く指導者の方はとても多いのですが、同時に、それがそのまま単純に本質的な成長には繋がらないことを指摘する指導者は意外とおられません。
ただ我武者羅に実践すると、放下著 傲慢さや執着を投げ捨てるはずだったのが、自己の想念行動では、自我が強くなるばかりで、自分では自己を否定しきれない矛盾?に突き当たってしまいます。
謙虚な人は、実践の道中で、その限界に気づき、自然に正に自ずから師を求めはじめますが、傲慢な人は師の必要性すら感じません。
 丹田をどんな質の想念で満たすか?により、修行すればするほど欲に落ちる場合もあり得ます。
その為、道元禅師は功夫坐禅の前に、まず参師聞法の重要性を説かれ、優れた正師に指導を仰ぎながらの修行を勧められ、もし、正師との縁がないなら「修行なんか…しない方が幸いだよ」とまで示されています。これもとても大切な御指摘だと思います。
 眞に丹田が円満に充満した時、自然に、正に「眼横鼻直の場」が同調し認得され始めます。
すうなると何故、「眼横鼻直の場」が認得されると、自他に影響されないのか?が直感的に自覚出来ます。
しかし、形を求める意識、想念がいくら強力強大に丹田に集まってみても、それは成りません。
なぜか…
その前段階として、形を求めない意識、想念とは欲ではない力だからです。
それを智慧を以て理解する必要があります。
そこに止と観の二法を謙虚に学ぶ必要性があるのです
止と観とは参師聞法と功夫坐禅
本来、只管打坐とは
それらを実践的に理解して初めて、行として成り立ち、始まるものです
闇雲に形として坐禅だけ徹底するのは大いに危険でもあります
なぜなら、形に基づく願望的意識や想念が、身勝手により強大化すれば
自分も他人も、より大きくその影響を与えたり受けたりすることになるからです。
その原因、原理が解らぬままの無自覚な当事者は、愚痴や恐怖、疑いを深め、終いには怨み始めたりもします。 …これらのことは真摯な修行者はきっと体験的に理解される方があると思います。
その為に私達はいつもいつも
只只、ひたすらに祈るのです。
真理の働きに委ねる
全託
祈りは想念や願いでは決してありません
釈尊が弟子たちに慈悲の瞑想(祈り)を重視され
ダライ・ラマ法王もひたすら祈られる
道元禅師が「佛のいえにすべてを投げいれなさい」とおっしゃるのは
正にここにあると思います。
そして、菩提心、慈悲心で丹田を満たす
すると自然に無念無想の念が充満し
眼横鼻直を認得させてくださる
それが
只管打坐
現在の自分の実践的な理解です。
そんな話をコスタスさんが滞在中、お互い参究し合いながら参禅に励んでおりました。
そんな彼が、ある日
この先ひたすら坐禅修行するには何処が良いだろうか?
という話しになった時、いろいろと法友達とも相談しながら
言語的問題もあり、タイや、ミャンマーの僧院での修行を勧めました
そして、お互いに
「三十年来、行脚し来たれ!」(三十年坐禅修行してまた再会しましょう)
と言って別れました。
あれから二十数年、彼から連絡がありました。
ちょうどその時一緒におられた松浦さんとも懐かしくお話しさせて頂きました。
現在は、ベトナムの僧院にいるとのこと
 そして、来日して是非、龍雲寺へ来たいとのことでした
さて、どんなご縁が開くかが今から楽しみです。
法友有難し。
南無三世諸佛諸菩薩 合掌
『永平広録』巻一
只是等閑見天童先師、當下認得眼横鼻直、不被人瞞、便乃空手還郷。所以一毫無佛法。
等閑なおざり天童てんどう先師せんしまみえて、当下とうげ眼横がんのう鼻直びちょくなることを認得にんとくして、ひとまんぜられず。
便乃すなわ空手くうしゅにしてきょうかえる。
所以ゆえ一毫いちごう仏法ぶっぽうし。