止と観のニ法に勝るものは無し
この数ヶ月の間、立禅の仕方とその意義を、八十代と二十代のお二人に「止」と「観」の説明を交えながらご縁あって一緒に実践させて頂く機会がありました。
止とは集中であり、功夫坐禅
観とは観察であり、参師聞法
功夫坐禅とは、文字通り、ひたすら坐禅実践をすることです。
参師聞法とは、自分より道理に精通した方に素直に教えを請い学ぶことです。
また
止とは、一つの事象、事柄に只管没頭することであり
観とは、事象そのものと、それを支える原理法則を事象から離れて只、観察することです。
立禅とはこの二つを同時に実践出来る非常に優れた修行法です
何故かといえば
私達の身体も心も
本来、絶対なる調和に基づいて
常に働いている為に
その「働きそのもの」を、自分で観察しやすくなるように活性化させることと、
そして、その働きの「効力と影響そのもの」を以て、不調和を自ずから調えられると自分自身で識ることが立禅によって可能だからです。
その効力、活性化の大小や、調和の質、認識の深さには、無限の階梯がありますが、まずはその原理を実践を通して体験的に理解することが肝要です。
と他の例え話し等を交えながら説明させて頂きました。
すると八十代の方が、それを理解なさったかのように、立禅をなさりながら気持ちよくどんどん拡がり、躍動されているようでした。
実践の後、お茶を飲みながら天台小止観の原典を少し紹介させて頂きました。
こうした志ある方々と、暫くは
黙々と実践させて頂きたいと思います。
本来「気付き」とは、年齢や如何なる心身の状態にも制約を受けるものではなく、常に無限の可能性に満ちているということ。そして、その気付きによって一瞬にして心身の変化が生じるという現実を一緒に実践しながら改めて教えて頂きました。
ご縁に感謝。合掌
この時にお話しした原典を下記に少し紹介させて頂きます。
略して矇を開き、初めて坐禅止観を学ぶ要門を明かす。
天台山 智顗禅師の説かれた
天台小止観より (抜粋)
諸悪莫作 諸善奉行
自浄其意 是諸仏教
諸の悪いことは作すことなかれ
諸の善いことは奉行せよ
自からその意を浄うする
是が諸仏の教えである
涅槃の世界は、そこに入るためには種種の途があるけれども、そのなかでも最も効果的で肝要なものはなにかといえば、止と観の二法に勝るものはない。なぜかといえば、止は、まよいへのとらわれをおさえつける第一歩であり、観は、まよいそのものも断ち切る力であるからである。また止は、人の心識を愛養するためのよきたすけ。観はものごとの正しい理解を発すための妙術である。止は、禅定を得るためのすぐれた因となり、観は正しい智慧を発するよりどころであるからである。もしこの禅定と智慧の二法をなしとげれば、自分を利益し、他の人人のためにもなる生活態度がおのずからその人の身に備わって来ることになる。だから法華経に、仏は自から大乗に住し。
その所得の法は、「禅定」と「智慧」の力とで荘厳られておりその力をもって衆生済度したまうのであるといっている。
この二法は、車の二つの輪。鳥の二つの翼のような関係で、もし、どちらかに偏って修習すると、邪見か邪倒に堕ちることになる。
もし両者が均等でなければその修行は円満なもの完備したものにはならない。そんなことではどうしてよく早く極果に登ることができようか。
諸仏如来は、禅定と智慧の力が等しい、その故に明了に仏性を見るのである
といっている。これらからそれを推し進めてゆくと、止観は泥洹(さとり)の大果に到るための門であり、同時にわれわれのさとりのための修行の勝れた路でもあり、同時にあらゆる徳が円満する帰結点でもあり、じつは無上の極果の正体そのものなのである。
もしこのような事情がわかれば、止観という法門は決して浅いものではない。
もしその心がここに説くところの趣旨にかなっているなら、一瞬の間においてさえも量り難い断惑の智慧と測り知れない尊い理解を得ることとなろう。けれどももし文字や文章にのみ心ひかれて、心情がここに説くところに乖いていれば、空しく年月を重ねるのみで、いつまでたってもついに証にいたることはできないであろう。例えば貧乏人が他人の財宝を数えて羨んでいるのと同じことで、自分自身にとってはなんらの利益もないことになる。
これは初めて坐禅というものを学んでみようとするときの大事な要点である。
よくその意味するところを取ってこれを修行すれば、これをもって必ず心を安んじ、難をまぬがれ、禅定を発し、真実の智慧を生じて、けがれなき聖果を得ることができるであろう。