徳者沈黙の説法に宗旨宗派無し

本日は地元の大切な法友の御師匠様がご遷化なされた為、荼毘式に拜登して参りました。

一般的には悲しみの感情に包まれることが多い葬儀のご縁ですが、今日は終始、圓満なる感謝と慈悲、そして、清らかさに包まれた尊い法要でございました。

徳者が、最後まで法を説かれるご縁に触れて、己の心身を静かに省みる機縁を頂いたように感じました。

私達は何ごとによらず、事に触れると、吉凶や善悪をその「事」のせいだ、と決めつけがちですが、本当に本当は、ふれた外の「事」が決めているのではなく、わたしの内の心が勝手にその「事」のせいにしていることに気付けぬままに、多くの年月を、あるいは一生をやり過ごしてしまいます。

今、コロナでもワクチンでも、打ったら打ったで心配し、打てなければ打てないで心配する。のみならず、他人の判断基準にまで批判が及ぶようです。

その心配に真ありしか

身体そのものが

本当にわたしであり

その人の本体本性だろうか?

最近では「ワクチンを打ったら死ぬ」と言う人もあれば、「打たないと死ぬ」と必死に伝える人もあります。

生老病死を超えるワクチン…?

そういう意味では

他人の話しに依存するのではなく

自己で自己の源を

深く真剣に観察する

好時節

今日は法友の師匠の死ぬ御姿を拝見させて頂きながら

この世の吉凶という有難い如何なる「事」に触れても、いつも感謝という光に満たされる道、心身、言動の在り方をこそ、日々の生活を通して自身に深めさせて頂くことが、尊い真の信仰の道であると改めて教えて頂きました。

師の最後の説法に唯、伏して感謝申し上げます。
龍雲寺 眞承九拜

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